黒澤明


日本のみならず、全世界の映画人から尊敬される巨匠・黒澤明。 その作品群は時代を超えて色あせることなく“痛快!”にして“おもしろい!”。




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まあだだよ
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≪プロフィール/黒澤明≫

【生誕地】 東京都品川区東大井3丁目

【生年月日】 1910年 (明治43年) 3月23日

【没年月日】 1998年 (平成10年)  9月6日 享年 88歳
 
【性別】  男  【職業】  映画監督 脚本家  【身長】  181センチ 

【略歴】
  • 1910年(明治43年)東京都品川区東大井で、父・勇(日本体育会理事)母・シマの間に8人兄弟の末っ子として生まれる。

  • 幼年の頃、目の前で飼っていた白い犬が電車にひかれ気を失ってしまい、この出来事が忘れられずにその後30年近くも赤身の刺身やお寿司が食べられなくなる。

  • 6歳 森村学園の幼稚園に入園。 父に連れられ初めて映画(活動写真)を見る。

  • 7歳 森村尋常小学校入学。 先生の言う事を聞かずに勝手な事をして遊び、他の生徒達とは離れた所に机を置かれ特別扱いをされる様になる。

  • 8歳 東京都新宿区東五軒町に転居し、黒田尋常小学校に転入。 いじめの対象となりいつも泣かされついたあだ名は“金米糖さん”(由来は、金米糖さんは困ります何時も涙を…という唄)。

  • 9歳 同じ小学校に通っていた兄は学校中で有名な秀才で、その弟という事からだんだん金米糖さんから“黒ちゃん”と呼ばれるようになる。 また担任の先生の指導により絵を書く事に開眼し、その自信の相乗効果から他の成績も急速に伸び始める。

  • 10歳 逞しく成長をし、級長になる。 父に剣道の道場へ入門したい事を伝え、書道教室に通う事、道場の朝稽古の帰りには八幡神社を参拝し毎朝神官に判を押してもらう事を約束事として認めてもらい、日曜日と夏休みを除き小学校を卒業するまで続ける。

  • 13歳 黒田尋常小学校卒業。 卒業式では男子生徒の総代として答辞を読み上げる。

  • 14歳 京華学園中学校入学。 盛んになってきた読書欲を満たすために電車賃を浮かせて好きな本を買い、学校への行き帰りに歩きながら読みふける。
    1927年(大正12年)関東大震災により家は倒壊したものの家族は全員難をのがれる。

  • 18歳 京華学園中学校卒業後、画家を志し美術学校の試験を受けるが落ちてしまいプロレタリア美術研究所に通う。 二科展に出品した絵「静物」が入選する。

  • 19歳 絵に没頭しきれぬまま文学、演劇、音楽、映画とありとあらゆる物を見散らかし日本プロレタリア美術家同盟に参加。 プロレタリア大美術展に水彩「建築場に於ける集会」油絵「農民習作」「農民組合へ」などを出品する。

  • 20歳 徴兵検査の令状を受け取り検査場へ行くが、その時の徴兵司令官が父の教え子であったため司令官の好意で兵役を免除される。

  • 22歳 プロレタリア美術運動にあきたらなくなり街頭連絡員として政治活動を始めるが、病気で寝込んでいるうちに街頭連絡員としてのつながりが切れてしまう。

  • 23歳 シネマパレス(映画館)で映画解説者になっていた兄を訪ね下宿する事になり、兄の紹介で邦画や洋画など色々な映画作品を見る。
    映画解説者削減の方針を映画館側が打ち出し映画解説者らはストライキなどを起こし、兄はその実行委員長になっていたが方針を変える事が出来ず自殺。 享年27歳であった。

  • 24歳 東京都恵比寿北寿西に転居。 兄の自殺と前後するかのように長兄が病死し、両親に対し長男のような責任を感じ画家としての才能には疑問を抱くが絵の具やキャンパスを買うために雑誌の挿絵などのアルバイトをする。

  • 26歳 新聞広告に載っていたP・C・L映画製作所(現・東宝)の「助監督募集」に応募し、採用される。(募集人数は5名に対して応募者数は500人超)
    月給は助監督28円、この年3本の映画のサード助監督をつとめ、その後88歳で亡くなるまでの62年間にわたり映画作りに没頭し、優れた才能で監督・脚本家として数々の功績を世界に残していく事になる。

  • 27歳 山本嘉次郎監督に出会い映画を製作するにあたっての基本を教えられ編集、ダビング、脚本など映画製作に必要な様々な仕事に関わり「エノケンの千万長者」など数本の作品でサード助監督をつとめ、1937年には「美しき鷹」でチーフ助監督に抜擢される

  • 30歳 情報局国民映画脚本募集に応募し「雪」の脚本で情報局賞を受賞し賞金2000円をもらう(当時の月給は48円)。

  • 31歳 「達磨寺のドイツ人」のシナリオが映画評論に掲載され、自らの手で映画化される企画が立てられたが内務省の検閲を通らず中止になる。

  • 33歳 異例の速さで監督に昇進し初監督作品、時代劇「姿三四郎」公開、大ヒットとなる。

  • 34歳 勤労動員の女子挺身隊を取り上げたヒューマンドラマ「一番美しく」公開。 また脚本家としての才能も発揮し「敵中横断三百里」が映画評論に掲載され、丸根賛太郎監督作品「土俵祭」など数々の脚本を書き映画化される。

  • 35歳 1945年2月、加藤喜代(「一番美しく」での主演女優・矢口陽子)と明治神宮で挙式(媒酌人に山本嘉次郎夫妻)。 東京都世田谷区祖師谷に新居を構え長男、久雄が誕生。

  • 38歳 酒飲みの医者とやくざの交流を描いたヒューマンドラマ「酔いどれ天使」公開。 1946年東宝ニューフェース第1期募集で補欠採用され、その俳優としての資質をかねてから高く評価していた三船敏郎を主役として抜擢する。 三船敏郎は本作品から1965年「赤ひげ」まで数多くの黒澤作品に出演し数々の映画賞を受賞、世界のクロサワ、世界のミフネとして活躍する。
    父・勇死去、享年83歳。

  • 40歳 「醜聞(スキャンダル)」「羅生門」公開。 「羅生門」は日本映画を全世界に注目させるきっかけとなり世界にクロサワの名を知らしめた傑作で、1951年ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞(グランプリ)、アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞する。

  • 42歳 東京都狛江市に転居。
    母・シマ死去、享年82歳。

  • 44歳 1954年時代劇「七人の侍」公開。 総製作費2億1千万円のこの作品は外国映画界に大きく影響をおよぼし、1960年サム・ペキンパー監督は脚本翻案作品として「荒野の七人」を公開する。 また、スティーブン・スピルバーグは1958年の黒澤作品「隠し砦の三悪人」をもっとも好きな作品といい、ジョージ・ルーカスはこの作品をヒントに1997年「スターウォーズ」のキャラクターをイメージしていった。
    長女、和子誕生。

  • 47歳 戦国時代劇「蜘蛛巣城」、江戸の幕末の長屋で暮らす人々を描いたヒューマンドラマ「どん底」公開。 第1回ロンドン・ナショナル・フィルムシアター(ロンドン映画祭)にジョン・フォード監督と共に招かれオープニング作品として「蜘蛛巣城」が上映される。 初めての渡欧。

  • 49歳 黒澤作品はあまりにも資金や日数がかかるため、東宝と共同制作という名目で黒澤プロダクションを設立。 (「七人の侍」の製作費は約2億1千万円で、これは当時で約7作品分の費用である。)

  • 51歳 痛快娯楽時代劇1961年「用心棒」公開。 この年の興行収入4位とヒットし、主演の三船敏郎がヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞。
    1997年ブルース・ウィリス主演「ラストマン・スタンディング」は「用心棒」のリメイク版である。 脚本の面白さ(数人で脚本を書き、もっとも面白いストーリーを選び脚本の内容を充実させ、妥協することなく多くの時間をついやし最高の作品を作るスタイル)、またいつの時代にも共感できる不変のテーマなど、数多くの黒澤作品が国内外で再評価される。

  • 52歳 痛快娯楽時代劇「椿三十郎」公開。 東京都世田谷区松原に転居。

  • 53歳 誘拐事件を描いたサスペンス「天国と地獄」公開。 誘拐を題材にしたこの作品はこの年の興行成績第1位の大ヒットとなる。

  • 55歳 江戸時代の医療機関を舞台に繰り広げられる庶民の物語「赤ひげ」公開。 この年の興行収入1位のビッグヒットとなり、この作品で三船敏郎は2度目のヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞を受賞。

  • 59歳 高いレベルの日本映画の伝統を守り若者に負けないような良い映画を作ろうと木下恵介、市川昆、小林正樹、黒澤明の4人で“四騎の会”を結成。

  • 62歳 東京都渋谷区恵比寿に転居。

  • 63歳 邦画の枠にとらわれないスケールの大きさで1976年、ソ連との合作「デルス・ウザーラ」を公開。(海外の映画制作会社との合作に関しては、1966年黒澤プロダクションと米アブコ・エンバシープロダクションとで合作映画「暴走機関車」の製作を発表するが脚本の食い違いから断念、1969年20世紀フォックス社との合作映画「トラ・トラ・トラ!」では、黒澤監督の妥協をみせない映画製作の姿勢とフォックス社側の合理的なスケジュールに基づく映画製作のあり方など意見の食い違いで中止となっていたが、この「デルス・ウザーラ」公開によってついに実を結ぶ。)

  • 67歳 東京都調布市入間に転居。

  • 70歳 信玄の死後その事を3年間隠す事…壮大な戦国時代劇「影武者」公開。 配収27億円という日本記録達成。

  • 73歳 「黒澤フィルムスタジオ」を神奈川県横浜市緑区に開設する。

  • 75歳 戦国時代劇「乱」公開。 この年の興行収入3位の大ヒットとなる。
    妻・喜代死去、享年63歳。

  • 76歳 アカデミー賞授賞式に出席しハリウッド映画界の偉大なる監督ビリー・ワイルダー、ジョン・ヒューストンと共に作品賞のプレゼンテーターを務める。

  • 80歳 黒澤明を師と仰ぐスティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスが製作協力し、ワーナー・ブラザースが世界配給を受け持つというスケールの大きさで監督自身の夢を描いたオムニバスドラマ「夢」公開。 第62回アカデミー賞特別名誉賞受賞。

  • 81歳 おばあちゃんの原爆体験と孫が織り成す社会派人間ドラマ「八月の狂詩曲」公開。 日系2世の“クラーク”役にハリウッドスターのリチャード・ギアが出演。

  • 85歳 1995年、京都中区の旅館で「雨あがる」脚本執筆中に転倒し背骨下部圧迫骨折などで、3ヶ月入院し車椅子の生活となる。

  • 87歳 1997年、黒澤作品で“世界のミフネ”として活躍した三船敏郎が死去、享年77歳。

  • 88歳 1998年9月6日、脳卒中により0時45分東京都世田谷区成城の自宅で死去、享年88歳。 9月8日自宅にて密葬、9月13日黒澤フィルムスタジオにて「黒澤明監督・お別れの會」が行われる。 10月25日神奈川県鎌倉市大町の安養院に納骨。

  • 1999年、遺作脚本となった時代劇「雨あがる」を小泉堯史監督はじめ黒澤組スタッフにより映画化、ヴェネチア国際映画祭にて特別上映され「緑の獅子賞」を受賞、2000年日本公開。

  • 2001年、佐賀県で「乱」の撮影をおこなった経緯もあり、文化と環境との共生、自然と人間を愛した黒澤明監督の遺志を受け継ぐ場所として伊万里市に“黒澤明記念館”を建設予定し、黒澤明監督の遺品や作品資料などを展示する予定。 計画をしているのは黒澤明文化振興財団(理事:黒澤久雄)。 名誉理事に米英監督のジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、マーティン・スコセッシなどを迎える。 記念館は2004年度に着工、2005年開館予定。(現在記念館の着工は遅れており、完成予定日は未定。 完成までの間、“黒澤明記念館サテライトスタジオ”で展示中。)



【家族構成】

妻 喜代 1925年〜1985年 享年63歳 (元女優 矢口陽子)

長男 久雄 1945年(昭和20年)12月20日生まれ  黒澤プロダクション代表、黒澤明記念館理事
  
長女 和子 1954年(昭和29年) 4月29日生まれ   黒澤プロダクション取締役

【墓所】

神奈川県鎌倉市大町「安養院」


【黒澤明記念館】

佐賀県伊万里市に建設予定。
完成までの間、“黒澤明記念館サテライトスタジオ”で遺品や作品資料などを展示中。
問い合わせ先
黒澤明文化振興財団 佐賀県伊万里市伊万里町甲358
電話 0955−22−9630


【著書】

「蝦蟇の油―自伝のようなもの」岩波書店 (1984年)
「夢(脚本・画)」岩波書店 (1990年)
「まあだだよ」徳間書店 (1993年)
「黒澤明作品画集」TOKYO FM出版 (1992年)
「何が映画か(七人の侍とまあだだよをめぐって)」徳間書店 (1993年)



≪黒澤明監督作品および受賞歴≫

姿三四郎 (1943年、監督・脚本)『国民映画賞・中山貞夫賞』
一番美しく (1944年、監督・脚本)
続姿三四郎 (1945年、監督・脚本)
わが青春に悔なし (1946年、監督)
素晴らしき日曜日 (1947年、監督)『第2回毎日映画コンクール日本映画賞』
酔いどれ天使 (1948年、監督・脚本)
静かなる決闘 (1949年、監督・脚本)
野良犬 (1949年、監督・脚本)『第4回芸術祭賞』
醜聞(スキャンダル) (1950年、監督・脚本)
羅生門 (1950年、監督・脚本)『第1回ブルーリボン賞脚本賞、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)、第24回アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)、ヴェネチア国際映画祭創立50周年記念「獅子の中の獅子(過去のグランプリ作品の最高位)」』
白痴 (1951年、監督・脚本)
虎の尾を踏む男達 (1952年、監督・脚本)
生きる (1952年、監督・脚本)『第7回毎日映画コンクール日本映画賞脚本賞、ベルリン国際映画祭銀熊賞』
七人の侍 (1954年、監督・脚本)『ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)』
生きものの記録 (1955年、監督・脚本)
蜘蛛巣城 (1957年、監督・脚本)
どん底 (1957年、監督・脚本)
隠し砦の三悪人 (1958年、監督・脚本)『ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞』
悪い奴ほどよく眠る (1960年、監督・脚本)
用心棒 (1961年、監督・脚本)
椿三十郎 (1962年、監督・脚本)
天国と地獄 (1963年、監督・脚本)『第18回毎日映画コンクール日本映画賞、NHK映画祭最優秀作品賞、監督賞』
赤ひげ (1965年、監督・脚本)『朝日文化賞、フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞、第16回ブルーリボン作品賞、第39回キネマ旬報賞日本映画監督賞』
どですかでん (1970年、監督・脚本)
デルス・ウザーラ (1975年、監督・脚本)『モスクワ映画祭金賞、第48回アカデミー賞外国語映画賞』
影武者 (1980年、監督・脚本)『カンヌ国際映画祭グランプリ、第23回ブルーリボン賞最優秀作品賞、第35回毎日映画コンクール日本映画大賞、監督賞、第5回報知映画賞最優秀作品賞』
 (1986年、監督・脚本)『第28回ブルーリボン賞最優秀作品賞、第40回毎日映画コンクール日本映画賞、監督賞』
 (1990年、監督・脚本)
八月の狂詩曲(ラプソディー) (1991年、監督・脚本)
まあだだよ (1993年、監督・脚本)


≪黒澤明その他の受賞歴≫

1971年 ユーゴスラビア国旗勲章
1975年 文化功労者
1980年 カンヌ国際映画祭35周年記念特別表彰
1984年 レジオン・ドヌール・オフィシェ勲章
1985年 コマンドゥール勲章、文化勲章
1990年 第62回アカデミー賞特別名誉賞
1991年 D・W・グリフィス賞、高松宮殿下記念世界文化賞
1994年 第10回京都賞
1996年 東京都名誉都民


≪黒澤明脚本公開作品≫

青春の気流 (1942年、伏水修監督)
翼の凱歌 (1942年、山本薩男監督)
土俵祭 (1944年、丸根賛太郎監督)
天晴れ一心太助 (1945年、佐伯清監督)
四つの恋物語・初恋 (1947年、豊田四郎監督)
銀嶺の果て (1947年、谷口千吉監督)
肖像 (1948年、木下恵介監督)
地獄の貴婦人 (1949年、小田基義監督)
じゃこ万と鉄 (1949年、谷口千吉監督)
暁の脱走 (1950年、谷口千吉監督)
ジルバの鉄 (1950年、小杉勇監督)
殺陣師段平 (1950年、マキノ雅弘監督)
愛と憎しみの彼方へ (1951年、谷口千吉監督)
獣の宿 (1951年、大曽根辰夫監督)
決闘鍵屋の辻 (1952年、森一生監督)
戦国無頼 (1952年、稲垣浩監督)
吹けよ春風 (1953年、谷口千吉監督)
消えた中隊 (1955年、三村明監督)
あすなろ物語 (1955年、堀川弘道監督)
敵中横断三百里 (1955年、森一生監督)
戦国群盗伝 (1959年、杉江敏男監督)
姿三四郎 (1965年、内川清一郎監督)
野良犬 (1973年、森崎東監督)
雨あがる (2000年、小泉堯史監督)
海は見ていた (2002年、熊井啓監督)

黒澤明
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