≪プロフィール/ジェームズ・ディーン≫
【生年月日】1931年2月8日
【没年月日】1955年9月30日(享年24歳)
【生誕地】アメリカ インディアナ州 マリオン
【性別】男 【身長】約173cm 【職業】俳優
【略歴】
- 父ウイントン・ディーンはロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士、母ミルドレッドは中流階級の出身。
- 9歳、母ミルドレッド、卵巣ガンで死亡。 父は幼いジミーの養育をフェアモントで農場を経営する姉夫妻に依頼。 夫妻は入籍こそしなかったが実子同然にいつくしみ育てた。
- 15歳、高校入学。 スポーツ万能選手として活躍、特にバスケットボールではキャプテンを勤める。 在学中、前歯を2本折り、眼鏡を15個壊す。
- 16歳、誕生祝に伯母夫妻からチェコ製の1.5馬力、時速80qの小型バイクを贈られる。 激しい音を立てながらバイクを乗り回し周囲を驚かせ、「ワン・スピード・ディーン」のあだ名をつけられる。
- 18歳、演劇部指導の先生に素質を認められ特訓を受け、卒業を控えた春、州の高校演劇朗読コンテストでディケンズの「狂人」を朗読し優勝、地元紙を賑わす。 高校卒業。 親身に世話をしてくれた伯母夫妻の家から、再婚してロサンゼルスに住む父の元に移り、父の勧めるサンタ・モニカ・ジュニア・カレッジ法学部に入学。 必修科目のほかに演劇関係の授業も受け、クラブ活動として演劇クラブ、ジャズクラブ、バスケットボールクラブで活躍する。 家では継母とも父ともなじめず、暗い日々を過ごす。
- 19歳、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス分校)に活発な演劇活動のあることを知り、同大学に転入学。 これを機に父の家を出、学生クラブが運営する寮で生活を始める。 ここの生活費は一般に較べかなり安かったが、生活のため映写技師助手、ペプシコーラのTV・CMなどさまざまなバイトに明け暮れる。
- 20歳、広告代理店の重役ロジャーズ・ブラケットと知り合い、誘われてブラケットの家に同居。ブラケットの紹介でロサンゼルスから生放送されるラジオドラマの端役、ホーム・パーマなどのテレビCMに出演。 テレビドラマ「Hill Number One」に洗礼者ヨハネ役でチョイ役出演。 これがテレビドラマ初出演となる。
- 21歳、朝鮮戦争を舞台にした「Fixed Bayonets」で、せりふのない端役ながら埋設地雷を探す決死兵を演ずる。 これが映画デビュー作となる。
- 22歳、「底抜け艦隊」でボクシング対戦相手のセコンド役、「Has Anybody Seen My Girl ?」でソーダ水売り場の青年役で、いずれもチョイ役出演。 「Has Anybody 〜 ?」では初クレジット。
UCLAを中退、ニューヨークの演劇の名門教室、アクターズ・スタジオに入る。 生活のため、エージェントを回って仕事を探すがありつけず苦労する。
- 23歳、ブロードウェイの新作舞台劇「ジャガーを見よ」の主役に抜擢されるが、作品の余りの不評に公演はわずか5日で打ち切られる。 だが、新人ジェームズ・ディーンの演技力だけは演劇人の注目の的になる。 舞台劇「背徳者」で準主役を演じ、1954年度最優秀新人賞(デービッド・ブラム賞)を受ける。
- 23歳、演劇教室アクターズ・スタジオ主宰者のひとり、イーリア・カザン監督が企画していた映画「エデンの東」に抜擢されて、出来のいい兄と比較され、父に疎(うと)まれながらもなお父の愛を求めるナイーブな青年キャルの役を演じ、これが主演デビュー作となる。 背を丸め、上目づかいに人を見る世をすねた若者の演技は、当時のティーンエイジャーの心を強くとらえる。ジェームズ・ディーンの名はこの作品で世に広く知られることになる。
主演第2作目は「理由なき反抗」。 両親の仲が悪く崩壊寸前の家庭で、両親との交流不足から孤独に陥り、非行に走る17歳の高校生ジムを演ずる。 崖に向かって車を走らせ度胸試しをするシーンは観る人に強烈な印象を残し、白いTシャツにジーンズ、赤いブルゾン姿は当時同世代の代表的ファッションとなった。 この作品もティーンエイジャーの大きな共鳴と支持を受ける。
- 23歳、イタリアからハリウッドにやって来たばかりの新人女優ピア・アンジェリと知り合い、相愛の仲となる。 だが、ピアはジミーの無作法を嫌って交際を反対する母親に逆らえず彼への思いを断って、ブルックリン生まれの流行歌手ヴィック・デイマンと結婚。 ジミーはその反動もあってか、愛車を駆ってのスピードにのめりこむ。
- 24歳、1955年4月、「エデンの東」全米初公開。
「ジャイアンツ」で、テキサスの牧場主夫人(エリザベス・テーラー)に淡い思いを寄せる牧童ジェットの半生を演じる。 「理由なき反抗」の撮影が終わり「ジャイアンツ」の撮影が始まるころからジミーは自らの演技に対してさらに神経質になり、撮影現場では監督ジョージ・スティーヴンズに対して常に反抗的であった。 夏、次回作「傷だらけの栄光」で主役のロッキー・グラジアーノを演じるためボクサー、キャラハンについてトレーニングを始める。
- 24歳、それまでに愛車ポルシェ・スピードスターを自ら運転し、数回カーレースに出場していたが、「ジャイアンツ」の契約では撮影中はカーレースには出場しないという条項を設けられた。 1955年9月21日、愛車ポルシェ・スピードスターを下取りに出し、代わりに銀色の新型車ポルシェ・スパイダー550を購入。
同年9月30日午後5時45分、同ポルシェ・スパイダー550をロサンゼルスの北西サリナスのレース場に向けて走らせていたとき、大型セダンと衝突、絶命。
- 1955年10月8日、フェアモントのフレンド派教会で葬儀が行われる。 教会の外の会葬者およそ3千人。 連日、墓前に献花が続く。
- 1955年10月14日、「エデンの東」日本初公開。
- 1955年10月26日、「理由なき反抗」全米初公開。
- 1956年2月 「エデンの東」で1955年度アカデミー主演男優賞にノミネート。
- 1956年10月、「ジャイアンツ」公開、同年度アカデミー主演男優賞にノミネート。
- 1957年 「理由なき反抗」で、同年度イギリスアカデミー Best Foreign Actor にノミネート。
わずか3本の主演作を残し24歳の若さで逝ったジェームズ・ディーンは、国境を超えた多くの人々からその死を惜しまれ、その作品について高い評価を受ける。
- 1996年、事故死を遂げたジェームズ・ディーンの最後の1年を、女優ピア・アンジェリとの悲恋を軸に描いた伝記映画「傷心 ジェームズ・ディーン 愛の伝説」公開。 ディーン役をキャスパー・ヴァン・ディーンが演じる。
【衝突事故】
1955年9月30日金曜日午後3時半頃、前日点検を終えたばかりの愛車ポルシェ・スパイダーに整備担当のメカニック、ロルフを助手席に乗せ、ルート99を疾駆していたジミー(ジェームズ・ディーン)は交通巡査に停車させられ、制限時速を10マイル/hr(16q/hr)オーバーしたことでスピード違反の切符を切られた。 5時2〜3分過ぎルート466とハイウェイ33の交差点のレストラン、ブラックウェルズ・コーナーで小休。 再びサリナスのレース場に向けてルート466を西に向かう。 金色に輝く夕日が丘の向こうに沈もうとしていた。
事故現場となるのはルート466とルート41のY字分岐点。 午後5時45分、ジミーと反対方向からこの分岐点にさしかかった学生ドナルド・ターナップシードが運転する大型セダンは左前方へ左折してルート41に入ろうとし、対向車線から直進してくるジミーのポルシェと激突。 (アメリカは右側通行なので、左折する際、対向車線を横切る。)自分に優先権のある車線を走っていたジミーは、こっちが見えているはずだ、止まるに違いないと思い込み減速することはなかった。 一方、ターナップシードには、灰色で地面を這うように低い車体のポルシェ・スパイダーは、起伏した道路の陰に入って見えにくく、ターナップシードがジミーの車に気づいたときは既に遅かった。
23歳のターナップシードはかすり傷程度で、27歳のロルフはポルシェから投げ出され、骨折。 しかし、安全ベルトはしていたのだがジミーはあごと両腕を複雑骨折し、内臓もかなり損傷、衝突のはずみで首が折れ曲がり、救急車で運ばれたが即死に近い状態であった。
裁判の結果、衝突の原因はジミーの運転するポルシェのスピードの出し過ぎで、ターナップシードは無罪となった。
しかしその後、事故当時のポルシェのスピードは制限速度70Km/hrに対して140Km/hr出ていたとする法廷での証言について、事故分析協会(Failure Analysis Associates)は同じ日の同じ時間、同じ場所で、同じ条件をつくり事故の再現実験を試み、ジミーが当時出していたスピードは約90km/hrで、それほどの高速ではなかったのではないかと報告した。
【女性関係】
ジェームズ・ディーンが恋した女性は、清純なピア・アンジェリであり、「ジャイアンツ」で共演した華麗なエリザベス・テイラーであり、「理由なき反抗」で共演したナタリー・ウッドでもあると伝えられるが、最も愛した女性は、流行歌手ビック・ダモンと結婚したイタリアの新人女優ピア・アンジェリだったようだ。 このため、ピアに失恋したことがジミーをスピードに追い込んだとする説もある。 また、ピア・アンジェリは2度の結婚にやぶれ1971年11月、ジミーの死から16年後に自殺した。 ジミーとの恋が遠因とも言われているようだが…。
【晩年の住居】
アメリカ カリフォルニア州 ロサンゼルス シャーマン・オークス(Sherman Oaks)
【趣味】
カー・レース。 所有したオートバイは、伯母夫妻から誕生祝に贈られたチェコ製1.5馬力をはじめ、ハーレー、ノートン、インディアン500、イタリア製のランチア、イギリス製のトライアンフ。
【Annual James Dean Festival】
≪ホットニュース≫参照。
毎年命日である9月30日前にジミーが高校卒業までの9年間を過ごしたフェアモントで「Annual James Dean Festival」が行われている。 亡くなった1955年から10年を節目に特別盛大な行事が行われている。 1995年の40周年ジェームズ・ディーン追悼祭は1週間にわたって行われ、国内からは34の州から、国外からは11の国々からジミーを今もなお慕う人々が参加した。 記念行事を締めくくる教会の追悼式の後、人々は公園墓地にあるジミーの最後の安息の場所、墓に詣でる。 ジェームズ・ディーン・ギャラリーには、ジミーの書いた手紙やメモ、高校時代のレポート、彼が描いたスケッチなどが展示されている。 また、近くのフェアモント歴史博物館にも多くの形見の品々、教科書やトロフィー、小切手などが展示され、絵葉書、ポスター、シャツ、セーター、マグカップ、キーホルダーなどのジェームズ・ディーン・グッズを購入することもできる。
フェアモント歴史博物館The Fairmount Historical Museum 月〜土:10am-5pm、日:12pm-5pm TEL(765) 948-4555
【墓所】
Park Cemetery, Fairmount, Indiana, U.S.A.
≪出演作/ジェームズ・ディーン≫
Hill Number One(1951年テレビドラマ)
Fixed Bayonets(1951年)
底抜け艦隊(1952年)
Has Anybody Seen My Girl? (1952年)
舞台劇「ジャガーを見よ」(1954年)
舞台劇「背徳者」(1954年)
エデンの東(1955年)
理由なき反抗(1955年)
ジャイアンツ(1956年)
ジェームズ・ディーン 出演人気作品一覧
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